超言理論

特に益もない日記である

ネットワークは本当に人生を豊かにしたのか?

インターネットなるものが生まれてからかれこれ50年くらい。
軍事用のネットワークから発展して学術研究用ネットワークや商用インターネットなどなど、いろいろなものに発展してきました。
私たちに縁のあるインターネットというと、メールを打っては送り、受けては返すそんな時代。
がんがんタグを打ち込んでサイトを作り、他のサイトとリンクを張るときはまた必死にメールやメッセージをBBSに打ち込んだ時代。
FlashJava scriptやCGIなど、エラーと戦いながら作った時代。
mixiなどのSNSが増え、比較的簡単な共通のメッセージサービスで友達を作れる時代
そして今、ボタンひとつfollowと押すだけでつながりが作れる時代。

確かに、インターネットと呼ばれるものの敷居も下がり、そして同時に多くの人とつながりが持てるようになりました。
しかし、思うのです。本当にその"簡単につながりを持てること"が人間を豊かにしたのでしょうか。

利便性と"豊かさ"

そもそも、豊かさとは何でしょうか?
インターネットが発達してまず得られたものというのは"利便性"だと私は考えます。
いってしまえば、電話ができて便利、郵便が送れて便利、そのレベルでのインターネットができて便利、ということ。
確かに便利になりました。書類も、データ化されたものはすべて現物がなくとも相手に渡すことが可能で、そして真夜中に送っても相手が都合のよい時間にそれを確認してくれます。
しかし、この"便利"というのは"豊か"になったと言えるのでしょうか?
そもそも豊かさとは何を表すのでしょう?物資的、財的、知的…さまざまあると思うのですが、私は"精神的"な豊かさを特に考えたいと思います。
精神的豊かさ、つまり、気持ち、としての豊かさ。
インターネットの普及によって、または発展によってこれらの豊かさと言うのは進歩したのでしょうか?

気持ちとつながり

思うのです、思いやり、相手を尊敬する気持ち、相手を信頼する気持ちに対して、インターネット上のつながりというものがとても不釣合いなのではないかと。
昔は、リンクを張るのも張ってもらうのも一大事で、相手がどんな人か、信頼に足る人物か、私は相手のサイトに乗るに十分なコンテンツを有しているか…など、さまざまなことを考えたものです。
ですが、今はどうでしょうか?
少しいいのではないかと思ったら、一言のメッセージか、またはそれもなしにリンク、友達、followの申請ができます。そして、相手も何も気にせずそれを承認することが当然ような風潮があります。
相手のことを、考えているのでしょうか?
思いやりの気持ちと言うのは、そこに存在するのでしょうか?
電話や手紙では、たとえばかける時間帯を考えたり、相手が読んで不快な内容がないか何度も読み返し、きちんと思ったとおりのころあいに届くようにその郵便を出します。
思いやりの気持ちにあふれる行為だと、私は思うのです。

ただ、インターネット上でそれは同じでしょうか?
あるひとつの発言や書き込みに当たって、自分のタイプした内容を確認するでしょうか?
そのタイミングで言っていいのか躊躇したり、思い悩んだりするでしょうか?

不安

私は怖いのです、他の誰でもない私が、何よりこの"他人のことを考える、豊かな心が必要なのではないか"と記事を書く私が、相手のことを考えてないのではないか、とそう思うと。
本当に、利便性は豊かさにつながっているのでしょうか?

私は、私が、不安です。


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