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超言理論

特に益もない日記である

変遷

人間が成長や変化を感じる頻度で、もしかしたらその人がどういう思いで日々生きているのか分かるかもしれないと、ふと思った。

立場の変化

たとえば卒業と入学、卒業と就職。
私たちは月日と共にその立場を変えてゆきます。
子供から大人へ、学生へ、社会人へ、老人へ。
その立場が大きく変わる瞬間、別れと出合いは人を大きく変えるでしょう。

かれこれもう20年、成人という子供から大人への一歩、そして高専から大学という一歩。
二歩重なって、ボクの人生は大きく変化しました。

年の変化

一つ年をとるとき、一つ年度の変わるとき、私たちは少しづつその年相応の権利と義務を得てゆきます。
誕生日を祝うとき、新しい年の始まるとき、きっと成長を実感することになるでしょう。

季節の変化

新しい季節を迎える時、今の季節を送るとき、時の流れを感じます。
はじまりを感じる春や、挑戦を連想させる夏、努力実る秋、困難を乗り越える冬。
そんな四季感と共にまた少しづつ人間は変わっていくのでしょうか。

月の変化

月欠け満ちるそのひとめぐりを意識して、時が過ぎることを思う人もいるでしょうか。
調子が揺らぐように、その月も大きさと形を増し減らししながら過ごしていきます。

日の変化

本題でございます。
一日、二十四時間。
楽しむには短く、悩むには長いこの一日という時間。
一日ごとに自分が成長していると感じる瞬間、ありますか?
1年365日でボクは(典型的な私立大学の一人暮らし学生なのでこの金額なのですが)300万近い金額を使っています。
学費に、食費に、光熱費に、その他多くのものに。
1日に換算すると1万円しないくらい。この1万円の価値について語ることは今は控えます。
しかし、ついぞ先日見た「大学は論文がタダで読めるところ」というtwitter上でのPOSTには、正直思うところある事実を伝えたくて仕方がありません。斜に構えて大学なんて、という発言について感じつことはたくさんあるのです。

毎日という概念

毎日、ボクは学校に行き講義を受け家に帰ってご飯を作りレポートや課題をして、寝ます。
一般的な学生と同じだと思います。特別努力をしているとは胸を張って言えませんし、むしろ堕落した、といっても過言ではないかもしれません。
この、毎日行うルーチンワークというもので、きっと日々の成長や進歩を感じることは難しいと思います。
ですから、
しかし、そうなのでしょうか?本当にそこに価値はない?意味はない?面倒臭さ以外の何物でもない無価値なもの?

面倒な行為、それを強要させたのは誰なのでしょうか?教授?助教授?学校?社会?
いいえ、きっと紛れもない私たちなのでしょう。
なぜなら、教授にしても学校にしても「別に課題やレポートなんて出さなくても何ら不利益はない」からです。
むしろ、お金という面のみから考えるのならば利益の出る考え方です。
堕落した学生なんて学校から見れば金蔓以外の何物でもないのですから。堕落しないように「してもらっている」のです。

それがいいとは言いません、でも、少なくとも多くの学生は、もちろん私も含めて「堕落しないように適度なタスクを与えてもらっている」のです。

しかし、それに嫌悪感を感じて「こんなことを繰り返しても意味がない」とか「面倒なばっかりの」というのです。
だから、大学を「論文がタダで読めるところ」なんて表現をするのです。
大学の価値を「タダ」扱いするのです。
本来の価値を認めたくない、少なくとも払っている学費の価値を無視して「大学なんて糞くらえ」というのですから、1日1万円の価値はその方にとって相当の水か紙くず扱いなのか、もしくは本当にその大学は価値のないものなのでしょう。

大学の価値

残念ながら、大学で履修届を出した専門科目の一部(あくまで一部と言っておこうと思います)は高専で履修した内容の復習でした。
アドバイスをくださる教授の話によると、変換してもよかったのだけど、あまり変換しすぎると真面目に単位も履修しないで学校を卒業することになりかねない。とおっしゃっていました。
ですから、もう一度復習となる講義を受けているわけです。
この講義の価値は何なのでしょうか?単位?時間つぶし?教授への媚売り?
とんでもございません、ここに価値があるのです。
たとえば「勉強しなくても難なく解決できる問題にも全力で取り組もうとする姿勢」を学ぶことができます。
「面倒なことにも諦めずに続ける忍耐力」がつきます。

最近思うのです、大学の価値って、そういうことなんじゃないかって。

学習することと学習させられること

講義で学習することは講義の内容だと思っていました。
最近はこう思うのです。「講義で学習させられることが講義の内容、講義で学習することは自分が学習したいこと」なのではないかと。
数学の講義を受けたとして、数学の学術を学ぶのでしょうか?きっと講義を受ければ試験で点数は採れるし単位も取れるでしょう。
しかし、そこにあるのは恐らく「単位の喪失から来る恐怖による強制的な学習」のみで、学習する姿勢を習得したわけではありません。
卒業にあたって、たとえば「この講義は(努力させられたではなく)努力した」と思うような、自主的に学習を行った講義はいくつあるのでしょうか。

最後に

(これが本編。笑)
成人式がきて、卒論が終わって、20歳の誕生日がきて、市長選の投票がきて、卒業式がきて、編入学式がきて。
今年、ボクの立場は大きく変わりました。
高専生から大学生へ、子供から大人へ、そして仲間のいるところから一人へ。

あれだけ泣きながら決めた大学に今通っています。
そろそろ一月たちますが、何とか生きています。

たった2年ですが、どれだけボクはこの学校で得るものがあるのでしょうか。
ある日、もう過ぎ去った1日。今日得た何かを考えながら。


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