超言理論

特に益もない日記である

アカイロ/深淵を覗くとき

赤を見る

 大学のとある講義、視覚認知や視覚情報処理を取り扱う講義の最終課題でこのような題が出された。
「赤色はなぜ赤色なのか、という題で論ぜよ。ただし"赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由/Nicholas Humpherey"を読んだ上で行うこと」
喜ばしいことに、そのレポートは紆余曲折を経ながらも、きちんと書き上がり、無事提出ができた。今回は、その"赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由/Nicholas Humpherey"を読んで思ったことをちょっとしたメモ書き程度に残しておこうと思う。

"Reding"

 "赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由/Nicholas Humpherey"におけるもっとも多く登場するキーワード、"Reding"すなわち「赤を見ること」。これを私が今ここで説明することは、つまり"赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由/Nicholas Humpherey"の本文を丸々1章コピー・アンド・ペーストすることになるので、もし次の超簡易的なかつ多々欠落のある説明で興味を持てたなら、実際に"赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由/Nicholas Humpherey"を購入し、自身で"Reding"を体験して欲しい。本当にそう思う。
 "Reding"、赤を見ることというのは、例えばマクドナルドの看板を見て「あれは赤色です」と認識することではない。そこに実際に赤色が存在するかどうかと言うのは関係なく、誤認識であっても、幻覚であっても、実際にそこに赤色がなくとも、彼、彼女、もしくは私たちが「赤があった」そう思い、"Reding"したならば、それは確か"Reding"だったのだ。つまり"Reding"は客観的事実に基づく赤色の認知ではなく、その赤色を認知した自身の視覚機能、脳機能を(例え誤認識であっても、だ)再認識することである。そもそも、視覚機能による赤の認識とは何か。例えば網膜に周波数がいくつの像が結んでいるという現象が「それ」であり、同時にそれ以上でもそれ以下でもないことだ。決して視覚という機能は、その赤の鮮やかさに驚きを隠せないといったり、その熟れたトマトのような食欲をそそる色合いに腹の虫をならしたりはしない。そう、の赤さが何を意味しているのか、私たちの目に写る赤が何者であるのかという理解、「クオリア」という存在こそが客観的な、事実的な赤ではなく"Reding"によって産み出される「アカイロ」という産物である。この「アカイロ」と呼ばれる なにか は、ただの周波数や形の定義だけでなく、私たちの心的、思考にも影響を与える「色」という定義からは外れた次元のものである。
 "赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由/Nicholas Humpherey"では、この"Reding"という行為からヒトにある意識の存在とは何ものかについて話をしていく。その過程について説明を始めると、本当に全てをコピー・アンド・ペーストして私が自由に飯を食えなくなることになるので、すべてが知りたい場合は"赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由/Nicholas Humpherey"を読んで欲しい。私の説明とは比べ物にならないくらい分かりやすく、そして興味深い内容が綴られているはずだ。しかし、読んで出直して欲しいと言うのは間違えている、簡潔に、その結論だけ書きたい。意識の存在と言うのは、「不可解なもの」だ。私たちがいかに悩み苦しんでも到達できない領域こそ「意識の存在理由」であり、その「悩んでも到達できないこと」こそ「意識の価値」である。もう少し言うならば、「悩み苦しみ考え続けること」こそが「ヒトがヒト足る由縁」であり、その鍵こそが「意識の存在」だ。つまり、意識の存在理由と言うのは「ヒトが悩み続けるようにするため」である。
 「赤色はなぜ赤色なのか」この疑問こそが"Reding"であり、同時に「意識の存在の証明」である、私はそう解釈した。

深淵を覗く

 私たちがアカイロを見ているとき、それは同時に私たちは私たちに存在している意識と対話している。これは、私たちの意識を、私たちの心の深いところ、深淵と呼ばれる一見できないところをアカイロというスクリーンを借りて投影しているといっても過言ではない。そしてこの行為、"Reding"ができるならば、人間でも、"Heing"も可能ではないか。
 赤色の像が網膜上に結んでいる、この事実を借りて"Reding"する。私たちはそこで感じた「アカイロ」を通して「意識という存在」と対話できる。同じだ、ある誰かの顔が私たちの網膜上に像を結している、そこから"Heing"するのだ。私たちは「彼という像」を通して「自身の意識」と対話する。
 当然起こり得る。しかも、視覚的な話をするならばこの「彼の像」は顔や全身である必要などどこにもないのだ。私たちは小説を読んでいる間、ただの文字、文章からその小説ないで描写された情景を脳に思い描くことができる。同様にして、ただの文字からも私たちはときに「その彼を再現し得る」のだ。そう、何らかのバックグラウンドが存在しえれば、私たちはごくわずかな情報からそれを連想し、そしてそこに対話を起こすことができる、ふとしたことから私たちは私たちの深淵を覗くことができるの。

対話形式

 しかしながら、その対話というものを自由にコントロールするだけの能力を、自由に意識と対話できる能力を持っていない(だからこそアカイロや彼というスクリーンに投影するわけだが)。当然、その対話が起こったときに、どのように私たちがそれを感じるかも不定であり、人それぞれだ。もしかしたら、向こうから疑問を投げ掛けてくるかも知れないし、自分が相手に疑問を投げるのかも知れない、それか私のように相手に不満を抱く形になるかもしれない。しかし、それらの矛先は彼ら彼女ら色、向こうではない。その先、そこに投影されたもの、私という意識そのもの、私がそれに不満を抱くということは「私が私に不満を抱いている」ことに他ならない。そして同時に、「私は不満を抱くという形の対話の形式を持っている」ことでもある。

締切

 "Reding"とは「意識の存在」である、そして"Heing"でっても"Sheing"であっても"Whating"であってもそれは「意識の存在」に他ならない。私たちは私たちに意識あるかぎり、認知し得る何にも彼にも疑問を抱き、対話を望み、不満と信頼を求めていく。それは恐らく当然のことであり、同時に不自然なことでもある。
 私はこれからも、不満と疑問を投げながら誰かと、そして自身の意識と対話をしていくだろう。

余談

 こんなに不満と疑問ばかりの信頼ない人生は好ましくないと思ったこともあった。しかし、今はそう思っていない。私は、私の信頼している人間以外に不満を直接言ったり、相手の意見に異を唱えたりはしないのだから。


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