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超言理論

特に益もない日記である

犀の角のように、ということ

仏教徒ではないのだけど、生きていく上での指針として原始仏教の言葉を参考にしている。
特に「犀」の言葉については思うところがあって、とても(ブログのタイトルにするくらいには※追記@20120623 そのブログは無かったことになりました)好きだと思う。
「犀」の言葉というのは、たとえばこんな

仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも旅するにも、常に人に呼びかけられる。
他人に従属しない独立自由を目指して、犀の角のようにただ一人歩め。

というものである。

本当に出家してただ一人山に籠り、川の水で身を洗い、黙々と畑を耕して死んでいきたいわけではないけれど、生きていく上で孤独は唯一の伴侶であって孤独と上手く付き合っていく事が必要なのかなと思ったりもする。
人間関係なんてものは特に

四方の何処にでもおもむき、害心あることなく、何でも得たもので満足し、
もろもろの苦難に耐えて、恐れることなく、犀の角のようにただ一人歩め。

このように二人でいるならば、我に饒舌といさかいが起こるであろう。
未来にこの恐れがあることを察して、犀の角のようにただ一人歩め。

嫌な事や嫌な相手が居れば争う事もあるだろうし、他人を疎ましく思ったり、隣の芝が青く見えたりする事もあるというのは今までこの短い人生生きてきただけでも良くわかっているし、そんな煩悩や欲望みたいなものは一生消えないようにも思える。
現に犀の言葉でも

実に欲望は色とりどりで甘美であり、心に楽しく、種々のかたちで心をかく乱する。
欲望の対象にはこの憂いのあることを見て、犀の角のようにただ一人歩め。

心乱すものはある、あるからこそ一人歩めと言っていて、非常に禁欲的だけど、その禁欲がそもそもの心の平穏や安らぎを求めている様子が見える。
多分、これから何年か珍しく同じ場所に留まって一人研究を進めるような生活になるのだと思うけれど、それはきっと犀の角のように一人歩むもので、
きっと研究室で仲間はできるのだろうけど、それはいわゆる伴侶ではなく文字通りの"仲間"で、きっと”休むにも、立つにも、行くにも旅するにも、常に呼びかけてくれる”のだと思う。でもこれからの長い研究の中で、特に何かを得たいと思うのなら"他人に従属しない独立自由を目指さなければならない"ような事もでてくる。
個性なんていわれるものはおおよそそういう物で、誰もやっていない事をやれるってことや、誰かと違う振る舞いができるってことで、それはつまり孤独に耐えられたかとか、苦難に耐えられたかってことだと思うし、同時に自由であったって事や独立であったって事だと思う。
その独立自由の先は就職か研究員か、または無職かはわからないけれど、孤独の先にある場所を目指して、犀の角のようにただ一人歩め、という事なのではないかと思う。


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