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超言理論

特に益もない日記である

必要かどうかは後で考えよう

「自分のブログとかに記事を書いてると、『本当にこの情報を必要としてる人が自分の他にいるのかよ』と思うよね」と言ったら、「『情報が本当に必要か』とは別に、『誰が書いたか』とか、そういうのも重要だと思うよ」と言われた。


超解釈すると、「情報そのものの価値」と「情報そのもの以外の価値」を見極めるのは重要で、特にネットの場合はそれが顕著である。
情報を探す側の場合は、情報そのもの以外に情報の提供者とか、その信頼度とか、それ以外の価値も重要になるのは明らかだし、情報を出す側も同じくそれが信頼に足るものだと相手に信じてもらうための努力が必要になる。
ならば、単なる無名な一個人が何の後ろ盾も権威もない状態から情報を提供することは無価値なのかというと、それはそうではなくて、たまたま同じ症状になった人のメモとか、たまたま同じことをやろうとしている人の記録とか、情報そのものの価値としてもそれ以外の価値としても特に目を見張るものがあるわけではないのだろうけど、この広い世界、この広いネットでたまたまどうして目的が一致して、その一見無価値な記録が重要になることもないことはないだろう*1
また、情報の価値以外にも情報そのもの以外の価値にも需要や希少性*2に関わらない要素があって、例えば自分に近い立場の人の意見が知りたいとか、サクセスストーリーではなく現実的な話が聞きたい、なんていうのも万人にネットが受け入れられた今だからこそもっと増えていいものだとも思う*3
(余談だけど、これは逆の場合もある。お前が言うな、というか。)

難しいのだろうが、自分の立場に対する卑屈さ加減(?)もうまく認識するべきだと思う。
「誰もお前のことを見ていない、自意識過剰だ」という言葉もあれば、意外と誰か*4が自分のことを見ていることもある。
見られていないこともあるし、見られていることもある、どっちかわからないし、多分どっちか分かっても、何も変わらない。
そもそも、たくさん見られているか、全く見られているかの二元で考えるのはやめた方がいいかもしれない。

あと、記録は自分のためにつけるものであって、他者はその記録の余剰的恩恵にあやかっているに過ぎない。自分のための情報の価値が、たまたま他人にも価値があるか、もしくはないだけの話だ。
他人のためのコンテンツとして自身の記録を用意することを強制される必要は全くない。
むしろ、自分は自分のためのコンテンツを自分のスペースに用意するべきだ。その「自分のためのコンテンツ」が「他人に自分を知ってほしい」とか「自分が後で見返したい」とか、何であるかも自由だ。

ネットは高度になり、一般化の果てに万人に利便性を提供した。
情報を流し、コミュニケーションを取り、買い物をして、記録をして、たくさんのことができるようになったが、利用者としてそのたくさんことをする義務があるわけではない。
とりあえず使ってみて、やってみて、不要だと思えばやめればいい。使うのも使わないのも自由なんだから。


以上、勝手な超解釈。

*1:遠い親戚より近くの他人、に近いものかもしれない。きっと、遠さは需要、親しさは信頼だろう。

*2:例えば、芸能人が書いているとか。

*3:増えた結果、ぶっ飛んだ人間が埋もれてネットが面白くなくなった、というのも聞く話だが。

*4:そういえば、この話をした相手が、意外と自分のことを見ていた


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